松源寺についてAbout

  • 松源寺のはじまり

    草創は元和年間。開基は寛文年間の了清とされ、了清は大阪府茨木市にある佛照寺開基勝光房西順の一門にて、
    九州巡歴の折、当地にあった草庵にて一宿したことが寺の始まりといわれる。
    享保5年(1720年)、本山より寺号木仏を許さる。
    天保8年(1837年)の類焼に続き、明治6年(1873年)の筑前竹槍一揆で再び焼失。
    明治12年(1879年)に再建された本堂は、崇福寺の仏殿を譲り受け移築したものとされる。

  • 松源寺の本堂について

    濡衣山松源寺は千代の松源の西端、濡衣塚白傅説と苅萱石堂丸物語にゆかりの地に在って、
    寛文年間(1667年頃)に江州の僧了、清の開基以来、三百有余年に及びます。
    現今の本堂は第八卋英弁師の時、農民暴動で類焼の後、黒田家菩提寺禅宗祟福寺の「仏殿」(釈迦堂)を譲り受けて
    明治十二年六月に落成しました。

    「石城志」によると、福岡藩主黒田長政氏が数年を要して慶長十二年(1607年)に、
    大宰府から今の地に再興完成した祟福寺伽藍の中の「仏殿」が、すなわち当山の本堂で四百有余年になります。

    第九卋弘善師の時、明治四十五年の宗祖親鸞聖人六百五十回忌に、堂内全部に極彩色を施し、
    幸にも戦災を免れて、昭和七年春の同七百回大遠忌記念にその改修を致しました。

  • 松源寺にまつわるはなし

    ○ 濡れ衣の由来(濡衣山松源寺の山号に因む)
    聖武天皇の頃、筑前守佐野近世は姫が海士の釣衣を盗むと聞いて調べると、
    果たして濡れた衣が夜具の上にあったので、怒って姫を殺した。
    それは継母の計り事であった。

    或る夜、夢に現れた姫の告によってその無実を知った。
    近世は、沸門に入って松浦上人となり、
    博多に石堂等の七堂ヲ建てて姫の菩提を弔った。
    無実の罪を濡衣きるとは之から起こったと云う。
    (「筑前守続風土記」による)


    ○ 石堂丸物語(苅萱石堂地蔵堂に因む)
    崇徳天皇の頃、守護職加藤繁昌は、博多の石堂口の地蔵尊から霊石を授かって男児をもらい受けた。
    幼名を石堂丸、後に左衛門繁氏と云ったが、彼は世の無常を悟って高野山に入り、苅萱道心となった。
    その嗣子も父の幼名をついで石堂丸と云い、父を訪ねて高野に登ったが、沸門の掟によって親子の名乗りもできず、
    二人は信州善光寺の畔で念沸往生をとげた。(「苅萱道心行状記」による)

    平成29年7月15日 博髙連だよりより(原文のまま)


    〇 寛政義民五人衆
    寛政12年(1800年)、
    御笠川対岸の芝居小屋では「葛の葉狐」という芝居が行われており、連日盛況であった。

    ある日、芝居見物に来ていた黒田藩の武士が酒に酔って乱暴狼藉を働いた。
    芝居見物に来ていた若者5人が、その武士を袋たたきにして川に投げ込んだ。

     この武士は藩から切腹を命じられて自害したが、このままでは武士の面目が立たないため、どうしても犯人5人を捕まえなければ。
    しかし、芝居見物に来ていた町人たちは口を固く閉ざし、犯人は判らなかった。

     その時、犯人5人は川を渡って松林に逃げたという情報をもとに、犯人は堀口村(注1)の人間だとして、
    藩の役人が村へやってきて「5人の若者を差し出さなければ村中を焼き払い、所払いにする」という厳命が下された。

     当時、厳しい身分制度の下で、芝居見物に行けない堀口村の住民が犯人ではないが
    無実であっても5人の若者を差し出さなければならなかった。
    幾日もの協議の末、14歳から20歳の5人が選ばれ、10月に処刑された。
    この5人の亡骸は遺族にも返されず、そのまま無縁墓地に葬られ、村では葬儀もできなかった。

    不憫に思った松源寺の住職が、5人の名前を密かに過去帳に残していた。

    注1 「堀口村」は現在の「千代」